凡例間部詮衡
時代江戸時代中期
生誕天和元年(1681年)
死没享保10年8月26日(1725年10月2日)
別名図書(通称)
官位従五位下・中務少輔、伊賀守、淡路守
幕府江戸幕府 小姓
主君徳川家宣→家継
氏族間部氏
父母父:西田清貞
間部 詮衡(まなべ あきひら)は、江戸時代中期の旗本。間部詮房・詮之の実弟。徳川家宣・家継に仕え、本家から独立し赤坂間部家[1]という分家を興した。
生涯の四男として生まれる。元禄7年(1694年)から甲府藩主、徳川綱豊(家宣)の小姓を務める。宝永元年(1704年)、家宣が江戸城西の丸入りすると、兄たちと同じく幕臣に取り立てられ、西の丸小姓になった。城内では、侍講の新井白石と、詮房および家宣との間の取次役を務める[2][3]。
その後、兄詮之と同じく出世し、正徳5年(1715年)には1550石知行の旗本になった。正徳6年(1716年)、7代将軍徳川家継の死によって職を解かれ寄合に列した。享保10年(1725年)、死去。享年45歳。家督は長男の詮長が継いだ。赤坂間部家は明治維新まで存続する[4]。 ※日付は旧暦 赤坂間部家が支配した知行所の一覧。()内は村高と相給者の人数[10]。
略歴
元禄7年(1694年)、甲府藩主徳川綱豊の小姓になり蔵米250俵支給。
宝永元年(1704年)12月5日、西の丸小姓。
宝永2年(1705年)
3月18日、蔵米200俵加増。
4月18日、従五位下・中務少輔。
宝永5年(1708年)1月21日、300石加増。蔵米知行を改め、下総国相馬郡のうち750石を知行。
宝永6年(1709年)西の丸から本丸に移る。
宝永7年(1710年)
1月13日、伊豆国君沢郡・田方郡の内500石加増。
11月12日、伊賀守[5]。
宝永8年(1711年)6月27日、伊賀守から淡路守に改称[6]。
正徳2年(1712年)、落髪して引退するが翌年、職務に復帰[7]。
正徳3年(1713年)8月18日、秋田季成の娘との縁組が決定。同年12月4日、婚礼の式を終える[8]。
正徳5年(1715年)9月6日、三河国宝飯郡のうち300石を加増。合計1550石を知行。
享保元年(1716年)、5月16日、寄合。
享保4年(1719年)4月25日、娘が誕生[9]。
享保10年(1725年)8月26日、死去。
赤坂間部家歴代当主
間部詮衡
間部詮長
間部詮番
間部詮芳
間部詮寛
間部詮徴
間部詮義
采地